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"ウチュウのクモ" ガーベラの上のデーニッツハエトリ♂
"ウチュウのクモ" デイジーの上のカラスハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ブルースターの上のカラスハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ガーベラの上のカラスハエトリ♂
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの上のマミジロハエトリ♂
"ウチュウのクモ" オブコニカの上のネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ガーベラの上のネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ガーベラの上のネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" デイジーの上のネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" デイジーの上のネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ガーベラの花びらの間で雨宿りするネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" オブコニカの上のネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" オブコニカの上のネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの上のシラヒゲハエトリ♀
"ウチュウのクモ" 水冠を被るネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの上のアオオビハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの上のクモマハエトリ♂(亜成体)
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの上のクモマハエトリ♂(亜成体)
"ウチュウのクモ" 突然の'雨’に慌てるネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" サクラの花びらの上の水冠を被るネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" サクラの花びらの上の水冠を被るネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ブルースターの上で飛び跳ねる寸前のネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ケイトウの上のカラスハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ガーベラの上のカラスハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの上のカラスハエトリ♂
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの上のネコハエトリ♀
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの茎で'雨’をやり過ごすアオオビハエトリ
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの上で'雨'をやり過ごすチャイロアサヒハエトリ(幼体)
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの花の下で'雨'をやり過ごすチャイロアサヒハエトリ(幼体)
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの上のアオオビハエトリ
"ウチュウのクモ" ワスレナグサの上のアオオビハエトリ
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クモを撮り始めた2013年はゲリラ豪雨の多い年だった。当時はまだ屋外でクモを撮影していたため、突然の雨に慌てふためくクモの姿を野生の中で何度か目撃していた。
ハエトリグモは水が苦手で、雨が降れば、一目散に逃げて雨をやり過ごすが、逃げ遅れるクモも中にはいる。
クモは粘着質を持つ脚の毛先で垂直面でも逆さでも自由に移動できるが、この粘着質は乾いた面だけに効くようで、濡れている表面には効かない。
小降りになった合間に逃げ遅れたハエトリグモをレンズ越しで見ていると、雪の降った日の都会の人々のように、グリップが効かずツルツルと滑って慌てふためいている。中には水冠を被っているのもいて、彼らには気の毒だが、美しく楽しい光景なのだ。
やがて多焦点合成の撮影を始めてから、精細さを求めるあまり、動きのない写真ばかりになってしまい思い悩んでいた。
「何とか動きを表現できないものだろうか?」
そんな折、ふと思い浮かんだのが、雨の中のクモの様子だった。
色々な試行錯誤を続けながら撮影を続けていると、ヘッダーにある写真を撮ることができた。この一枚がきっかけとなって、「雨中の蜘蛛」の撮影を始めた。
余談だが、昔、僕はオーロラに夢中になっていた時期があって、オーロラが出るまでの間、満天の空を眺めるのが好きだった。都会で生活するようになって、星を見上げることも少なくなったが、画面に写り込んだ水滴を見ていると、自分がまるで宇宙に漂っているような気分になって、オーロラを追いかけていた頃の懐かしい光景が蘇ってくる。タイトルの中の「ウチュウ」は「雨中」でもあり「宇宙」でもあるのだ。
蜘蛛の一生は短かい。だが、果たして人の一生は長いのだろうか?
オーロラ活動のサイクルと人の一生を考えた時、途方に暮れたことがある。太陽黒点は11年毎に増減を繰り返す。その極大期から4−5年後にオーロラの出現度はピークを迎える。オーロラの出現瀕度は黒点数よりもその後に勢力を増すコロナホールの領域の勢力との関係の方が強いからだ。何はともあれ、その時間のスケールを自分の活動できる期間に当てはめると、一生のうちに5-6回しかそのサイクルに巡り会えない。ましてや歴史的なオーロラに出喰わすことなど奇跡と言っていい。オーロラを追う生活に少し疲れを感じ始めた頃、それまで後回しにしてきたものにもレンズを向けるようになったが、これだ! というものにはなかなか出会えなかった。撮りたいものに出会えない……。そんな時期に出会ったのがハエトリグモのつぶらな瞳だったのだ。
話を元に戻そう。
「ウチュウのクモ」のテーマタイトルが浮かんできたのは、水滴の一つ一つが宙(そら)に浮かぶ星々を連想することとオーロラを追っていた頃の熱病に侵されたような高揚感に包まれて動いていた感覚が蘇ってきたからだ。
水滴一つ一つにも景色が写り込んでいる。その様子はまるで宇宙に浮かぶ星々の起源が同じであることを思い浮かばせる。一方でオーロラ撮影で慣れ親しんだ星座の形に宙(ちゅう)に止まる水滴が並びはしないかという密かな楽しみもある。
クモを飼いながら撮影をすることになって、いろいろと感じることある。
クモは一年で世代交代していく。毎年同じ時期に同じ場所に同じ種類のクモが出てくるが、それはすでに世代が変わっているはずだ。ただ、命を繋げていくということは、何一つ欠けては繋がらない、ということを小さな命が教えてくれる。クモの一生は死と隣り合わせの苦難の連続だ。
両親の出会いからして壮絶で、メスに出会ったオスは、命がけで求愛する。気に入られない場合メスの獲物になってしまうこともあるからだ。うまく行動に移せたとしても、その後に食べられてしまうオスもいる。それを防ぐため、ハエトリグモではないが、メスを糸で縛ってから"プレイ "する種もいる。
ハエトリグモの産卵は、母グモの栄養状態に左右されるようだが、だいたい15-20個前後の卵を産む。孵化率は高い。無精卵を産む個体もいるが、健康な母グモが産んだ卵は100%近く孵化する。しかし、孵化してから出囊までに一回脱皮して2齢幼体へ成長するのだが、この時に脱皮できずに息絶える個体が出てくる。さらに2齢に成長するといよいよ出囊だが、出囊前に息絶える個体も少なくない。この後母グモに守られていた産室から出てきて、巣立ちを迎えると、数多くの捕食者たちの獲物となり、食物連鎖の中に組み込まれる。食物連鎖に組み込まれれば、自然だ。
だが、実際には、ゴミになってしまうことも都会の生息地では少なくない。
メスは産室と呼ばれる繭を作り、その中で産卵する。やがて、孵化し、子グモが独り立ちするまで飲まず食わずで守る。守ると言っても、小さな生き物である。人の目につくことなどほとんどない。葉裏や茎の根元、樹皮の隙間などに産室を作り、人目につかないところで子育てをしているからだ。"かわいい”子猫や傷ついた小鳥であれば、「可哀想」となり保護されることもあるだろう。一般的に"クモを殺してはいけない"と子供の頃から教わってきたせいか、わざわざ見つけて殺す人はいないだろう。だいたい、クモの姿に気付く人はは多くないし、気にも留めない。目につかないから、気付かれないから、一般にグロテスクと思われている多くのクモが生き延びてきたのだと思う。その気付かれないことが仇となることもある。目に入らないものは存在しないのと一緒だ。
3月。まだ肌寒さの残る晴れたある日、いつも採取場所にしている近所の公園に行くと、草が刈り取られている。皆伐だ。虫一匹いなくなるというのは大げさだが激減する。刈り取られた草木は一旦積み上げられ、やがて、ビニール袋にまとめられる。ビニール袋に入れらた葉の何枚かの葉をめくってみると繭に包まれた卵がコロコロと動いた。その葉を地面にそっと戻した。ビニールの上っ面を探しただけで見つかるのだから、袋をひっくり返したら、相当な数の小さな命がゴミとして捨てられているはずだ。越冬した個体が成体、成虫になる前の3月に刈られてしまうと、多くの昆虫やクモの卵、幼体、幼虫にとっては、根絶やしともいうべき大惨事なのだ。そこで世代が途切れてしまう。エリア限定ではあるものの、生態系は大きく狂い、多様性は失われる。ただでさえ少ない生息環境が壊滅状態になる光景を見るにつけ、心苦しくなる。
草に埋もれていた看板が顔をのぞかせアピールしてくる。
「自然を大切にしましょう!」
そんな矛盾に満ちた世界、時代に僕たちは生きている。それは、僕たち人間もクモも小さな生き物も変わらない。
ところで、僕の分身は宇宙のどこかにいるだろうか?パラレルワールドでもあれば、知らない自分がどこかにいるかもしれないが、それはSFの話で、やはり考えにくい。
だとしたら、僕は宇宙の中で唯一無二の存在になる。一方で、自宅で孵化して生まれてきた子グモを撮影していると個体差がある。そそっかしいもの、のんびりしたもの、どっしりとしたもの、無鉄砲なもの。それぞれの子グモをを見ているとどこかで見たことのある人の顔が浮かんでくる。それを個性と呼ぶなら、1mmにも満たないたった一頭の子グモでさえ、唯一無二の存在だ。それを言ったら、写真に写る水滴一粒一粒にも「ここに来て、どこかに行く」ドラマがある。
同じ時代、同じ世界に生きて触れ合う人々、生き物、森羅万象。自分の触れることのできるものなどささやかなものでしかない。だから……。限られた時間の中で触れ合えるもの、それまで目に入らなかったものにも目を向けて、と大きな瞳の小さな生き物が訴えてくる。
タイトルの「ウチュウのクモ」は、そんなとりとめのない思いからふと浮かんできた。
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